スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

受験地獄の受験旅行!

 ぼくが大学入試を受けた時は、センター試験などなかった。受ける大学まで行って、受験することになっていた。家には兄弟三人いて、私立大学は父に許してもらえなかった。とにかく国立を受けなければならなかった。少しでも合格の可能性がある大学を選んだものの、国立は5科目受験だ。ぼくの場合、国語・英語・社会だけなら私立でもけっこういいところに受かる自信があったのに、夏休み遊び過ぎたため、数学と理科は絶望的な状態だった。それでも、無理を承知で、とりあえず遠い地方の国立大学まで寝台列車で長距離移動して受験に行った時のことが今も忘れられない。

 個室が左右3段ずつのベッドで、最大6人寝られるようになっている寝台列車、その上段のベッドを取ったぼくは、夜10時過ぎ、少し勉強して、さあ、寝ようとしたが、なかなか寝られない。しばらくしたら、数人の男性が騒ぐ声が聞こえた。それにアルコールのにおいもする。カーテンを少し開けて覗き見ると、下段のベッドに4人ほどが座って、酒盛りをしていた。しばらく我慢したが、たえきれず、「すみません!明日大学入試なんです。静かにしてくれませんか?」と少し遠慮がちに言った。

 すぐに静かになったものの、それから30分ほどしたら、また声がし始めた。はじめは小声だったが、ぼくが何も言わないので寝てしまったのだと思ったのだろうか、また少しずつ大きな声になって、そのうち大笑いする声も聞こえてきた。アルコールのにおいもプンプンしてきた。ぼくは当時、数理同様、アルコールがまったくだめだった。今度は大きい声で「騒がないでください。お願いします!」と言ったら、ようやく静かになった。

 受験に行ったのは四国にある二つの大学だった。一つ目の大学がある街には有名な坊ちゃん温泉があるが、残念なのことに立ち寄る余裕などなかった。試験では国語・英語・社会は自信があったが、数学は白紙で出した。大学を出る時、「電報サービス」という案内を見て、意味のないお願いをした。受験番号を知らせておけば、発表の日、すぐに合格掲示板を見て知らせてくれるのだ、合格の場合「サクラサク」、不合格の場合「サクラチル」の電報をくれることになっていた。

 一つ目の大学受験が終わったら、すぐに、二つ目の大学を受けるために、電車で移動した。目的地は高知県。地元の旅館に泊まった。旅館に上がる時、中居さんが「御履き物はこちらへ忍ばせておきます」と言った。「『忍ばせる』というのはどういう意味ですか?」と尋ねると、「入れて置きます」ということだった。それから、はりまや橋にも行ってみた。確か、橋はすでになかったと思うが、何となく情緒を感じた。方言に触れたことや名所を通っただけで来た甲斐があったと思った。この大学でも数学がほとんどわからず、一問だけ自信のない答えを書いておいた。そして、ここでも意味のない電報サービスをお願いした。

 その後、帰郷し、後に、「サクラチル」という電報が二通届いたのは言うまでもない。何ともいい加減な受験生だったことを今は深く反省している。ぼくの寝台列車と旅館の体験は、ただの受験に名を借りた旅行に過ぎなかった。

 そして入りたいと思っていなかった第三志望の大学に合格した。そこは数学と理科の受験が不要だった。国立を落ちた人たちがたくさんいる大学だった。この大学に入ったことが人生を大きく左右した。どこの大学でも構わない、勉強することが大切だと人は言うけれど、強い意識を持って入学するのとそうでないのとでは、やはり大きな差があるだろう。
スポンサーサイト

 小さいころ海は大好きなところだった。
小学生のころ、夏休みになると、近所の家族と一緒に海水浴に行った。子供たちだけで、よく遊んだ。少し年上のお姉さんの水着姿にどきどきしたこともある。水際でびちゃびちゃ波とたわむれたり、砂浜で城を作ったりした。時には、浜から離れた沖まで唯一できる平泳ぎで泳いでみたりした。海水が鼻にはいったりしながらも冒険を楽しんでいた。海水浴は解放感たっぷりの楽しみのひとつだった。

 働くようになってから、3年間ほどだが、太平洋を望む断崖の上にあるアパートに住んでいた。毎朝、目を覚ますと、海を見下ろしながら、顔を洗っていた。この海の向こうにハワイがある。アメリカがあると思いながらだ。このころは海水浴に行くというより、知り合いの海の家で過ごしたり、友人たちと浜辺でキャンプをしたりした。

 家庭を持って、子供が生まれてからは、自分が子供のころしてもらったように、夏になると一度は海水浴に行った。しかし、ある年、浜辺を歩いていた娘の足に釣り針がささったことがあった。泣き叫ぶ娘を抱えて、救急病院を探したときは本当に慌てた。それ以来、海水浴も行かなくなった。

 数年前、久しぶりに海水浴に行った。場所は江の島だ。当時、日本語学校に勤めていて、教えていた中国人学生たちを連れて行くことになった。中国の国歌「義勇軍行進曲」の作曲者、聶耳(nie'4 er3)が溺死した鵠沼にも行って石碑を拝んだ。

 江の島の海岸についたら、みんなでスイカ割りをし、そのスイカをみんなで食べた。それから、砂遊びをしたり、水際で波とたわむれたりして楽しんでいたのだが、だいぶ時間もたち、ちょっと疲れてきた時のことだ。無理をして少し沖まで泳いでいった。ふと気づくと、足が届かない所に来ていた。必死に泳いで、浜に戻ろうとしたが、なぜか、浜辺は遠ざかる。少し離れたところに、浮輪に乗っている中国人女子学生が見えた。「助けて!」と叫んだが、彼女は無反応だった。もう終わったなと思いながら、中国語で、「救命(jiu4 ming4)」と叫んだ。すると、彼女は手でこぎながら、近づいてきてくれた。ぼくは彼女の浮輪につかまり、浜に向かって戻った。みんなが「聶耳と同じで溺死するところだった」と言った。

 それが最後の海水浴だ。今でも時々海に行く。江の島にも行く。だが、ただ眺めに行くのだ。横浜の山下公園や横須賀の猿島等へ行き、海の美しさを満喫する。海は人の生命の源だ。心を慰めてくれるところだ。だが、もう海につかろうとは思わない。海は鑑賞するところであって、たわむれるところではない、と今は思っている。

サクラチル

今桜はどんどん散っている。「桜散る」といえば、思い出すことがある。

数十年前のことになるが、高校三年の2月、国立大学を二つ、公立大学を一つ受験した。当時は、合否を通知する電報を送ってくれるというシステムがあった。大学の門を入った所に受付があり、住所を登録するのだ。

公立は国語と英語と社会の3科目、国立はそれに数学、理科も含めた5科目を受けた。とにかく理系がだめで、特に数学はまったくひどいものだった。だから、結果は最初からわかっていた。ただ、親の命令でどうしても国立を受ける必要があったのだ。

公立は何とか合格の自信はあった。だが、国立の数学の試験はひどい結果だった。一つ目の大学では一問しか解けなかった。二つ目の大学では白紙だった。

そして3月に入って、結果通知が来た。公立は郵便で合格の通知が来た。そして国立からは、「サクラチル」という5文字の電報。桜がさくことはなかった。いや、「サクラチル」ということは、一度は咲いたから散るのだと妙に解釈して納得した。

稽古始

正月といえば思い出すことがいくつかあります。

まず、高校時代の剣道部のことです。

高校一年生の冬休み、剣道部で年末年始の合宿がありました。31日の夕方、父が運転する車で、布団を学校の道場へ運ぶ。部員たちが全員で学食へいき、夕食をとった後、しばらく休憩してから、この年最後の練習を始める。そして、時々休憩を取りながら、零時が近づくと、みな正座し、面を取って、礼をし、この年のけいこを終えます。

そして、しばし休憩した後、零時過ぎ、新しい年を迎えると、再び、全員正座をして、黙想し、黙想を終えたら、面を着け、練習開始、「稽古始め」を始めます。そのまま数時間けいこをして、全員、道場で寝るのです。

その間、カウントダウンもしなければ、無駄口を叩くこともありません。もちろん「ヤー」などという大きな掛け声だけは道場に響きますが、それ以外は本当に、神聖な空気の中、黙々と稽古をするのです。

今思えば、実に精神を重要視する部活動でした。そのころ、いつも朝練もあり、「シゴキ」といってもいいものでした。そのため、疲れ切ってから授業に出るという毎日でした。一時間目はほとんど睡眠学習の時間になってしまい、その結果、得意な数学が一気に苦手科目になったのを覚えています。

また、同じ一年生の友人が「苦しさ」から「やめたい」と言った時、先輩が「お前はここへ何をしに来たのだ?楽しみたいと思ってきたのか?ここは苦しむための場所なのだぞ」と言ったことも忘れられません。

話は少し戻りますが、一年生の秋ごろの、自分の学校の体育館で県大会がありましたが、試合と試合の間に、私は先生に別の場所にある道場へ連れて行かれました。そこで、私を待ち受けていたのは、厳しい練習、いわゆる「シゴキ」が待っていました。精神が高揚した私は先生に向かって、「この野郎!」と叫び、ぶつかって行った時、先生は「そこまでだ。体育館に戻れ」と言いました。そして先生といっしょに体育館に戻ると、突然、先輩の代わりに試合に出るように言われました。わたしは何が何だかわからず、また、何も考えられないまま、ほぼ無心の状態で試合に出ました。そして勝ったのです。後で聞けば、相手は二段の選手だということでした。私は無段でした。この時の体験も忘れられません。

あれこれ考えると、勝てないが、無心になれば、勝てるということなのでしょうか。そして、私がそういう人間であることを先生は見抜いて、「シゴキ」ともいえる練習の後で、試合に出したのだということでしょう。

二年生になって、先生が変わり、私は試合に出る機会を失いました。それでも、夏休みの合宿には参加しました。その中で、もう一つ忘れられない出来事がありました。合宿の最中も激しい練習が続き、暑さの中、毎日、学校の塀を乗り越えたい欲求を抑えるのに必死でした。夜、道場で寝ていると、キャプテンがうなっていたのを思い出します。苦しかったのでしょう。キャプテンの重圧と練習の厳しさに苦しんでいたのでしょう。「う~、う~」とうなっていた声を今も覚えています。

秋を過ぎたころ、私は腰を痛めました。練習にも出られず、ただマネージャーのような仕事をするようになりました。そのころ心配になったのは大学受験です。朝練の後、一時間目に寝ていた結果、勉強のほうは全くダメになっていました。もちろん朝練のせいにするのは間違いです。成績でトップクラスを維持しながら、剣道でもどんどん上達していった同級生がいました。私自身が、校訓である「文武両道」を実現できなかったというだけのことです。

そして高校二年生の冬、これ以上続けていたら、大学も難しいと考えた私は両親の説得もあり、正月を前に退部し、二度目の稽古始はありませんでした。

衝突

中学生の時、雨の日、自転車で帰宅していた。猛スピードで自転車を走らせていて、路上駐車している自動車に衝突した。自転車は大破、ぼくも少し怪我をしたようだった。呆然としていたら、建物から人が出てきて、自動車の後部を調べている。僕を見て「バカ野郎、前を見て走れ」とどなった。壊れた自転車を引いて家へ帰った。

高校生の時、クラブも勉強もうまくいかず、悲しみのまま帰宅しようと学校の門を出て信号を渡っていたら、急ブレーキの音がして、僕ははねられた。「車の窓が開き、「バカ野郎、ちゃんと信号を見て渡れ」そうどなって走り去った。それからゆっくり歩いてバスで帰宅。

大学生の時、彼女と別れ、失意のまま、帰る時、駅のホームを歩いていて、柱にぶつかった。眼鏡が割れて、顔中生ぬるいものがながれていた。トイレに駆け込み、鏡を見たら、顔中血だらけだった。トイレットペーパーで血を拭き、顔を洗って、家へ帰った。

今でも顔に傷が残っている。心の傷も消えない。

プロフィール

xufang

Author:xufang
すべてが終わった時、すべてが始まる。

掌編小説
掌編小説
リンク
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
3031位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
255位
アクセスランキングを見る>>
FC2掲示板
検索フォーム
枕中記アクセス
なかなか伸びないカウンター
カテゴリ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。