年末年始

 目が覚めると、時計の針は6時を指していた。外は暗い。夕べのことを思い出す。夕方6時ごろまでの記憶はあるが、それ以降の記憶はない。12時間寝たのだろうか。ただ、体中がだるくて布団を出る気にならない。しばらく布団の中でぐずぐずしていたら、外はますます暗くなっていく。
 
 何日前のことかよくわからないが、クラブの先輩に言われて、遊園地のバイトに行くことになった。その遊園地は年末29日から正月1日までオールナイトで営業していて、夜6時から朝9時まで切符切りのバイトをしてくれというのだ。親からのしおくりも残り少なかったので、やむなく引き受けた。

 29日は、夕方5時ごろまで寝てから出かけた。6時少し前に着き、簡単なレクチャーを受けた。印象に残ったのは笑顔を絶対に忘れるなということだった。楽しげな家族連れが目の前を通り過ぎるのを少し妬ましく思いながら、顔だけの笑顔で迎える。特に難しいことはない。ただ、単調すぎて、飽き飽きする。それでも、笑顔を絶やさない。深夜になって、客足が鈍ると、2つのゲートのうち、一つを閉鎖し、切符売りと3人、交代で1人が休む。そうしながら、朝を迎える。朝7時ごろにはまた客足が伸びる。あと少し頑張れば帰れる。
 
 30日の朝9時バイト終了!アルバイト代をもらって、狭い4畳半の下宿に帰る。さあ、寝ようとした時、先輩が4人やってきた。5人のうち、1人が休憩しながら、徹夜麻雀をしようというのだ。およそ5時間に1度休める。それでも、寝不足でへまが多い。5時にぼくは友人を呼んで交代する。それから、二日目のバイトに出かける。この夜は客が多かった。休みがなかなか取れなかった。

 大みそかの朝、かなり疲れてバイトから戻ったら、先輩たちが「お帰り」と言って迎えてくれる。それはそれでうれしい。友人と交代して、また麻雀を始める。どうも頭が回らないながらも5時までがんばって、また、他の友人を呼び、交代。三日目のバイトに出かける。これが最後だ。夜、眠気とたたかいながら、必死で笑顔を作る。そして1月1日の朝6時過ぎ、休憩する前に初日の出を拝む。これはこれでけっこういい。

 そして、9時最後のバイトが終わった。四畳半に戻ると、先輩たちはまだいた。「お帰り、さあ、やろう」という。「先輩、もう眠くてたまんない」と言っても、許してくれない。何度もうとうとしながら、「お前の番だぞ」と言われて牌を握る。しかし日が落ちはじめるころ、とうとう、目を開けないぼくをそのままにして、先輩たちはようやく帰ってくれた。意識朦朧としながら腕時計を見ると6時だった。それから、記憶がない。

                            (了)
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テーマ:短編小説 - ジャンル:小説・文学

年老いた牛の眼(原作:毛丹青「老牛的眼睛」)

 あなたは年老いた牛の目を見つめたことがあるだろうか。その沈着冷静なまなざしに心を動かされたことがあるだろうか。

 わたしが小さい時、文化大革命があった。わたしは、わたしの両親も農村の幹部学校に行かされ、わたしは両親について行った。私たち家族はそこで忘れがたい日々を過ごした。

 その当時の子供は大人たちと違って、自由奔放であちこち走り回っていた。時に大人たちの心配げな顔を目にしても、子どもたちは天真爛漫だった。その時代において、都市から移されてきた知識分子たちはすべて、当時のこどもから「牛小屋の住人」と呼ばれていて、この言葉がいったい大人たちにどれだけつらい思いをさせていたのかについては、当時の子どもたちは誰も想像できなかった。当然のことだが、誰もわざわざ話してはくれなかった。文革中の大人たちは何でも子供たちに話すのではなく、とりわけ政治上の難しい問題についてはお茶を濁していた。そういうわけで、大人と子供とは、一つの分厚い壁で隔てられているようなものだった。

 わたしが今でも覚えている話がある。当時、ある北京大学の教授が「反革命分子」というレッテルを貼られたため、家族たちは、彼を絶縁し、紅衛兵が彼を連行して街中を引き回す時にもその手伝いをしたという。教授は必死で耐え、幹部学校へ移されると、工事現場に住むよりも、むしろ年老いた牛を友としたいと希望し、毎日、牛小屋で寝起きしていた。

 ある日、教授は死のうと思った。一本の太い縄を牛小屋の梁に縛り付け、首吊りをしようと考えたのだ。ところが、ちょうどその時、彼のそばの年老いた牛がとても暖かい眼で彼を見つめていたそうだ。「もう、もう、もう」という牛の声は教授にとっては「いけない、いけないよ、やめろ」と言っているように聞こえたというのだ。

 教授はこの牛の暖かいまなざしに深く感動し、これからは粘り強く生きていこうと決心したそうだ。

 それから、数年後、大人になったわたしはこの教授と会って、この話を聞いたのだ。

 「あの年老いた牛の眼はまさに仏の目だったよ。」

 そう言ってから、教授は口の中でぶつぶつ言った。

 「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)!」


                                           原作:毛丹青「老牛的眼睛 」

三日月(原作:毛丹青「月牙児」)


 指折り数えてみると、あれはわたしがまだ小学生のころのことだ。ある日、先生が私に教科書の本文を朗読するように言った。「山路蜿蜒,一直往西,月亮多像小船,划到那美丽的天边……(山道は蜿蜒(えんえん)とまっすぐ西の方へ伸びている。月はまるで小舟のようで、美しい空の海を漕ぎ進んでいるようだ…)」というところまで読んだ時、先生が私に質問した。「君はこの表現をどう思うか?」

 「月は小舟のようではなく、えんどう豆のようです。」 とわたしが答えると、先生はちょっと驚いたようで、私をにらみつけて言った。「違うよ。何がえんどう豆だ? 君は本文の意味さえわかっていないんだ。」

 先生の叱責の声は教室中にこだました。

 放課後、あるクラスメートから「いいかっこした目立ちたがり屋!」と罵られた。わたしは悔しい思いがしたし、心中はひどくつらかった。

 それから、卒業し、さらに高校も終えて、北京大学に入った。大学生の間、三か月の教育実習があった。大学生はみな農村の小学校教育に貢献しなければならなかった。そこで、わたしは北京を離れ、河南省の農村へ行った。

 わたしが教えたのは作文の授業だった。偶然なことに、そのクラスで使っていた本は私が小学生の時使っていたのと全く同じものだった。本文を朗読する時間になって、私は一人の男の子を指名した。そして、その子が、「山路蜿蜒,一直往西,月亮多像小船,划到那美丽的天边……」と読んだ時、ほとんど錯覚に陥ってしまった。目の前の男の子がほかでもなく、正に私自身が今まさしくこの部分を朗読しているのだと。私は思わず質問した。「君はこの表現をどう思いますか。」

 男の子は頬を赤らめながら、小声で言った。「先生、月は小舟なんかじゃなくて、えんどう豆みたいです。」

 この瞬間、私は言葉が出なくなった。しばらくして、クラスの子どもたちに向かって言った。「すばらしい答えです」と。

 時は流れて、二十年近くが過ぎた。私は日本に移り住むことになった。ある日、私は中国から郵便を受け取った。中には一冊の小説が入っていた。本の中にはしおりが挟んであって、そこに「先生の作文の授業に感謝します」とあった。本を送ってくれたのはあの時の男の子だったのだ。今は彼も作家になっていて 、彼の書いた小説の題名は「三日月」だったのだ。


原文:毛丹青「月牙儿」

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